青春シンコペーション

第６章　誘拐犯はお父さん！？(1)

「井倉君、おはよう！」
彼が朝食の支度をしていると、トレーニングから帰って来たハンスがにこやかに声を掛けた。いつもより３０分早いペースだ。
「おはようございます、先生。今日はお早いんですね」
「うん。昨夜、美樹と話したんだけど、彼女はやっぱり僕のことが一番好きって言ってくれたんです」
ハンスはそう言うとうれしそうに笑って勝手に冷蔵庫から牛乳を出して飲んだ。
「井倉君もどう？」
「僕は結構です」
「君も今日はいつもより早いんじゃない？　そういえば、目が赤いみたいですけど……」
「その、夕べはいろいろ考え事してたら眠れなくなってしまって……」
「それはよくありませんね。睡眠は大事ですから……」
ハンスは目上の者らしく威厳に満ちた態度で言った。
「はい。気をつけます」
そう返事をしながらも、ハンスの方こそ睡眠不足なのではないだろうかと危ぶんだ。

（先生はいつも僕達より随分早い時間に起きてトレーニングに出掛けてるし、だからといって、夜早くベッドに入る訳でもない。昼間だってずっと活発に動き回っているし……。僕は、壁の向こうに彩香さんがいるんだと思っただけで胸がいっぱいになって眠れなかったというのに……）
「あ、美樹ちゃんが起きて来た！」
ハンスは小鳥のように駆けて行ってその頬にキスをした。フレンチキスなら美樹も怒ったりしなかったし、井倉も最近ではすっかりその光景には慣れていた。が、今朝は妙にドキドキして落ち付かなかった。
黒木はリビングでテレビのニュースを見ていた。猫達は朝の陽射しの中で満足そうに毛づくろいをしている。そして、彩香はまだ降りて来ていなかった。

「井倉君？　どうしたの？　卵焼きが焦げてるわよ」
美樹に言われて彼は慌てて火を止めた。
「すみません」
「お手伝いしましょうか？」
「いえ、大丈夫です。美樹さんはお仕事があるのだしお出掛けの支度をなさってください」
「それならもう済んでるわ。それに、今日は５人分だし、手伝うわよ」
「すみません。それじゃ、このお皿お願いします」
それから間もなく彩香も来て、皆で朝食を食べた。

それから、美樹は外出し、彩香は地下室のピアノを使った。そして、井倉はリビングでいつも通り練習を始めた。その間、ハンスのオセロの相手をしているのは黒木だ。
ハンスの相手をするのには技術が要った。それと悟られないように負けてやること。小さい子どもの相手をしてやるように……。しかし、いつか真実を知ったら、彼は傷付くかもしれなかった。が、そういった感情がコントロールできない彼にとっては周囲が気を使ってやらなければならない。事故で喪失してしまった部分の見返りとして……。美樹はずっとそんな彼のことをやさしく見守って来た。ハンスが彼女に固執するのもわからなくはなかった。

時計が１１時を告げた時、ドアチャイムが鳴り、フリードリッヒがやって来た。
「ビー　ゲーテス　ディア、ハンス？　今日こそ決意してくれたかい？　私と音楽の新たな境地を目指すことを……」
「やめてくれ。最悪な気分だよ。言っただろ？　僕は誰とも音楽のパートナーは組まない」
何を言ってるんだ。君ほどの才能の持ち主がこんなところで埋もれているなんて人類の大いなる損失だ。ショパンコンクール優勝のこの私が言うんだ。間違いない。他の誰が認めなくても、私は認める。初めてなんだ。この私と同等の実力を持ったピアニストに出会ったのは……。君とならやっていける。私と組めるのは君しかいない」
「しつこいぞ！　何度言われたって駄目なものは駄目だ！　帰ってくれ！」
「君は真実から目を逸らしているんだ」
フリードリッヒは彼の両肩を掴んで言った。
「何？」
「私の目を見ろ。君にもやがて真実が見えて来るだろう」
「生憎だけど、僕には何も見えないね」
ハンスが視線を逸らす。
「そんな筈はない。もっと心を開くんだ。聞こえて来るだろう？　無意識の底から突き上げて来るリビドーの叫びが……」
フリードリッヒは興奮のあまり、ひしとハンスを抱き締めて叫んだ。

「やめろ！　何をする？　放せ！」
「いいや、私は君を放さない。君がうんと頷いてくれるまでは……」
体格に優っているフリードリッヒはガッチリと彼を抑え付けて放そうとしない。
「井倉君！　ピアノなんか弾いてないで、早くこいつを何とかしてくれ！」
ハンスに言われて井倉は慌てて駆け付け、消極的に言った。
「あの、ヘル　バウメン。ハンス先生がこんなにいやがっているのだし、その、やめていただけませんか？」
「井倉君、君もピアニストを目指してるなら、わかる筈だ。このときめきを！　芸術家にしか感じ得ない熱き情熱を……」
フリードリッヒは熱弁したが、残念ながら言語がドイツ語だったため、井倉には通じなかった。

「とにかく、早く先生を放してください」
「断る！」
フリードリッヒが叫ぶ。
「井倉君、警察を呼びなさい。それとも救急車の方がよろしいですかな？」
黒木がドイツ語でそう言った。
「警察だって？」
フリードリッヒが我に返って手を放した。
「そうだ。警察を呼ぶぞ！」
ハンスも叫んだ。
「何を言ってるんだね？　君達。私は別に彼を拉致しようとした訳じゃないんだよ」
「でも、押さえ付けるなんて酷いですよ。あなたの方が体格だって大きいし……」
井倉が言った。
「そんな目で見ないでくれ。まるで私が彼をいじめてたみたいじゃないか」
「いじめてたろうが……」
ハンスがこれ見よがしに咳をして睨みつける。

そこへドアチャイムが鳴り、来客を告げた。
「僕が出るよ」
行こうとする井倉を止めてハンスが言った。よほどフリードリッヒの側から離れたかったに違いない。客は近所に住む小学生のしおりだった。
「こんにちは。しおりちゃん、回覧板ですか？」
彼女が持っているプリントの束を見て訊いた。
「ううん。違うの。今日はお願いがあって来ました」
「お願い？」
「はい。嘆願書の署名に協力して欲しいんです」
「嘆願書って何？」
「えーと、ここに住所と名前を掻いて欲しいんです。わたし、愛川姫乃ファンクラブの会長として、横暴な学校のやり口から彼を守るために立ち上がることにしたんです」
「横暴なやり口って？」
「ここにも書いてあるんですけど……」

ハンスは受け取った署名用紙を眺めていたが、漢字の読めない彼には理解できなかった。
「井倉君、ちょっと来て！」
ハンスが呼んだ。
「はい。何でしょうか？」
「しおりちゃんが署名をして欲しいって言うんだけど……」
「なるほど。愛川君が書いた小説のことで、学校側が彼の退学を検討しているので、君達はそれを阻止したいという訳ですね？」
リビングに通され、カルピスをもらって飲んでいたしおりが頷く。
「そうなんです。まったくもってひどい話でしょう？」

黒木とハンスがサインし、井倉も続けて名前を書いた。
「それにしても。愛川君って小説を書くんだ。すごく評判がいいみたいですね。近所の書店売上ベスト１０に入るなんてすごいなあ」
井倉が感心する。
「そうなのよ。わたしはずっと前から、姫乃お兄ちゃんの才能に理解があったからずっと応援して来たんだけど、学校の先生達は頭が固いからちっともお兄ちゃんの偉大さをわかってくれないの」
しおりが不満をぶちまける。
「この紙、何枚か置いて行ってください。できるだけ集めてあげるから……」
ハンスが約束してくれたのでしおりも喜んで頭を下げた。

「私も協力しましょう」
突然フリードリッヒが言った。何の話かと訊いて来た彼に黒木が内容を通訳してくれたのだ。
「たとえ作家とて同じこと。若き芸術家の魂を傷付けることが許されていい筈がありません。私は断固として署名します」
「はん。名前の脇にショパンコンクール優勝の私、とでも書きこむのか？」
ハンスが茶化す。
「おお。それはいい！　署名にも箔が付くだろう。その用紙を貸したまえ」
１番に拘るフリードリッヒが新しい署名用紙のトップにサインした。
「ありがとうございます」
彼が言うドイツ語の意味はわからなかったが、名前を書いてくれたことに対してしおりが礼を述べた。
「どういたしまして。こんなことでよければ何度でも」
フリードリッヒはすっかり気をよくしていた。

「今は美樹ちゃんが出掛けてるし、頼めば他にもサインしてくれる人は大勢いると思うんです」
ハンスが言った。
「わあ！　ハンス、ありがとう」
「ところで、今日はまだ学校がある日じゃないのかい？」
井倉が訊いた。
「今日はうちの学校、創立記念日なの」
しおりが言った。
「そうか。せっかくのお休みなのに大変だね」
「ううん。ぜんぜん平気だよ。わたし、姫乃お兄ちゃんのためならどんなことだってしてあげたいの」
「そうか。しおりちゃんは姫乃君のことが好きなんだね」
井倉に言われてぽっと頬を赤らめるしおり。
「でも、同じでしょ？　井倉のお兄ちゃんだってあの彩香さんってお姉ちゃんのこと好きなんだもんね」
彼女に言われて、井倉の頬も赤く染まった。

そこへ、練習を終えた彩香が入って来た。
「あら、楽しそうね。何のお話？」
「い、いえ、何でもありません」
井倉の慌て振りを見て、みんなが笑う。
「えーと、それじゃあ、お姉さんにもお願いします」
しおりが趣旨の書かれたプリントを渡す。
「署名の協力？　いいわ。私も書いてあげる」
一通り文言に目を通すと彼女は頷いた。その言葉にしおりは喜んで署名用紙を渡した。
「ありがとうございます。それじゃ、井倉お兄ちゃんの下のところにお願いします」
しおりはそう言って井倉にウインクして見せる。彼はドキリとして視線を逸らし、皆はそれを微笑ましく見つめた。彩香は気づかず、言われた場所にサインした。
「あ、ありがとう。彩香さん」
井倉が言うと彼女は用紙を差し出して言った。
「あなたが礼を言うことじゃないでしょ？　渡しはここに書かれている趣旨に賛同したからこそサインしたまでよ」
「そうですね」
井倉が俯く。

「それじゃ、わたし、他にも回って署名集めなくちゃだから……」
そう言うとしおりが立ち上がった。
「がんばってね」
井倉が言うとしおりもにこっと笑って言った。
「お兄ちゃんもね」


昼は黒木がパスタを作ってくれた。デザートはフルーツにアイス。缶詰と市販のアイスを盛り付けた物だったが、可愛らしくまとまっていた。

「それにしても、どうしておまえまでいるんだよ？」
同じテーブルを囲んでいるフリードリッヒにハンスが言った。
「黒木さんがごちそうしてくれると言ったんだ。構わないだろう」
「ここは僕と美樹ちゃんの家なんだぞ」
「これを作ったのは黒木さんだ」
「まあまあ。二人共、食事の時くらい仲良く食べようじゃないか」
黒木が取り持つように言った。
「食後のコーヒーは僕が入れますから……」
真っ先に食事を終えた井倉が立った。
「また入れ過ぎないようにね」
彩香が軽く注意する。
「はい。大丈夫です」
「よし。私も手伝おう」
黒木も立ってキッチンへ向かう。

「ところで、ハンス。頼みがあるんだが……」
「却下！」
要件を切り出す前に拒絶されてフリードリッヒが困惑する。
「そう言うなよ。実は、日本にいる間、ピアノを弾ける場所がないんだ。君のところを貸してくれないか？」
「無理」
ハンスはきっぱりと断った。
「一日中とは言わないさ。空いてる時に数時間だけでいいんだ。さすがに基礎練習は欠かしたくないからね」
「へえ。驚いた。ショパンコンクール優勝するほどの奴でも練習しないと駄目なのかい？」
「意地悪言うなよ。君だってピアニストだろ？　日々の積み重ねの練習がどれほど大切なものか知らない筈はないだろう？」
「僕には練習なんて必要ないもの」
「そんなこと信じられるか！　君はどうしても私をドイツへ帰したいようだけど……」
「ああ。そうだよ。今日は午後から子ども達のレッスンがあるし、僕にピアノを習いたいって人がたくさん問い合わせて来てるんだ。とても無理だよ」
「そうか……」
フリードリヒはがっかりしたように俯いた。

「でも、先生、地下室のピアノは？」
彩香が訊いた。
「地下室？」
フリードリッヒが顔を上げる。
「わたしがさっきまで使わせていただいていたピアノ。ハンス先生がレッスンしている時でも、あそこなら差し支えなく使えるんじゃありませんの？」
「何と。この家には地下にもピアノがあったのか」
フリードリッヒが目を輝かせて言った。
「それは有り難い。ぜひ貸してくれ」
ハンスは壁に掛かったからくり時計の人形を見ていた。今はオルゴールの音色は止めている。
「仕方がないな。それじゃ、一日２時間だけ貸してやる。それでいいだろ？」
「ありがとう。助かるよ」
フリードリッヒは満面の笑みを浮かべて感謝した。

午後、井倉は食料品の買い物に出掛け、ハンスは子ども達のレッスンの準備を済ませた。その間に掛かって来た電話の問い合わせや何かの事務処理を黒木が引き受けてくれたので、ハンスはフリードリッヒを地下の練習室へ案内した。

「僕は３時から子ども達を見てやらないとだから、彩香さんと相談して好きなように使ってくれ」
ハンスの言葉にフリードリッヒは喜んだ。
「わたしはもう午前中に一度使わせてもらっていますので、どうぞ」
彩香が言った。
「ありがとう、フロイライン」
彼は部屋の中を見回すとハンスに言った。
「ここは快適だね。ずるいよ。こんな素敵な小ホールを隠してるだなんて……」
確かにそこはちょっとした小ホールのようだった。ピアノとオーディオの設備。カラオケ。客席もざっと３０人は入れる広さがあり、小さな舞台まで備えられている。
「ここは美樹ちゃんのスタジオなんだ。ほんとは他人に教えたくない隠し部屋なのさ」
「それで、地下へ通じる階段もあんなことになっているのか。驚いたけど、よくわかった。このことは口外しない」
フリードリッヒが約束した。
「それじゃ、僕は上に行ってるから、あとは好きにしてくれ。ただし、勝手に動き回るなよ。落とし穴に落ちても知らないからな」
ハンスが言った。
「落とし穴？」
フリードリッヒは訳がわからないといった顔をしたが、それはハンスのジョークだと理解して頷いた。
「わかった。この部屋からは動かないよ」

「ところで、ハンス先生」
リビングに戻ると彩香が言った。
「何ですか？」
「ここにいる間、わたしにもレッスンをお願いしたいのですが……」
「ああ。それは構いませんけど……」
ハンスは少しの間思案した。
「そうですね。彩香さんを僕が引き受けるとして……。そうだ！」
ハンスは地下へ駆け戻って言った。
「おい、フリードリッヒ！　ここを使わせるための条件がある」
「条件？」
「３０分で構わないから井倉君を見てやってくれないか？」
「井倉？　だって彼は君の生徒だろう？」
「そうだ。けど、彼にはまだ必要なものがある。僕や黒木さんではない者から学ぶべきテクニックがね」
「いいだろう。それじゃあ、彩香さんには君から教えてやってくれ。彼女に必要なものを学ぶのは君が適任だと思うんだ」
「ああ。そうするつもりだ。それじゃ、よろしく」
そう言うとハンスは再び階段を上った。

と、そこへ美樹が帰って来た。
「美樹ちゃん、お帰り！　今日は早かったんだね」
「うん。思ったより順調に済んだから……。でも、大変なこと思い出して……」
「何ですか？」
「うん。明日は水曜でしょ？　デパートお休みだったの。だから、お買い物に行くなら今日にした方がいいんじゃないかしら？　ねえ、彩香さん」
「まあ、明日はお休みなんですか？　困ったわ」
彩香が言った。
「だからね、これから行かない？」
「でも、美樹さんだって、お帰りになったばかりだし、申し訳ありませんわ」
「大丈夫よ。今日もほんとなら午後まで掛かりそうだったんだもの」
「でも……」

二人のやり取りを聞いていた黒木がファイルを畳んで言った。
「よろしかったら、私が車で送りますよ。そして、お買い物が終わったらまた連絡を下されば迎えに行きます」
「でも、黒木さん……。よろしいんですか？」
美樹が遠慮がちに訊いた。
「なあに、構いませんよ。私もこの家の家政夫ですから……」
黒木はにこやかに返事した。
「じゃあ、お願いします」
二人は黒木に礼を言うと早速デパートへ出掛けた。


井倉はスーパーで必要な物を買うとエントランスへ向かった。
「えーと、あとはドラッグでハンドソープとラップ、それにうがい薬も買わなくちゃ……」
メモを見ながら歩いていた井倉に声を掛けて来た者がいた。
「あ！　井倉さん、こんにちは！」
見ると音大で見掛けたことがある女の子だった。
「君はえーと、確か彩香さんと一緒にいた……」
「栗田です」
「ああ、栗田さんでしたっけ……」
彼女が今年入った１年生だということは思い出したが、それ以上のこと覚えていなかった。しかし、彼女はそんな井倉に構わず親しげな口調で話し掛けて来る。
「こないだのコンクール見てました。優勝おめでとうございます！　あの彩香さんを破って優勝するなんてすごい！　わたし、井倉さんのこと見直しちゃいました」
「え？　そんなこと……」
井倉は照れた。
「謙遜することありませんよ。わたし、ずっと井倉さんならやれるって思ってました」
「え？　そうなの？」
「だって、あのハンス先生の特別レッスンに選ばれたり、はじめから普通の人とは違っていたんですよ」
「そんなこと……」
井倉はどう言ったらいいのかわからずに微笑した。
「今はハンス先生のお宅に住んでるんですってね。ああ、それってお買い物ですか？　重そう。持つのお手伝いします」
「え？　それは……大丈夫ですよ。これくらいの荷物」
「いいえ。持ちますって……」
彼女が無理に荷物を引っ張るので二人の距離が急速に接近した。

すぐ目の前は幹線道路。車がひっきりなしに通り過ぎる。クラクションに気づいた井倉が顔を上げると、反対車線の車から叫んでいる黒木の姿が見えた。
「井倉、帰りに拾ってってやるから、そこで待っていなさい」
「あ、黒木先生」
井倉は急いで頷くと軽く手を上げた。その時、通り過ぎて行く車の後部座席に二人の女性が乗っているのが見えた。一人は美樹。そして、もう一人は……。
「彩香さん……」
（まさか、見られた……？　でも……）
彩香は真っ直ぐ進行方向を向いていた。
（黒木先生が声を掛けてきたんだから気がつかない筈がない。でも、別に彼女と話してただけだし……。どうしてこんなことが気になっちゃうんだろ？　それは僕が彩香さんのことを好きだから……？　だからって意識し過ぎだ。たまたま音大の知り合いに合っただけなんだし、彩香さんだって、彼女のことを知ってる。だから、気にすることなんかない。気にすることなんかないのに……）

「井倉さん、どうしたの？　さっきの黒木教授でしょ？　一緒に乗っていたのは彩香さんよね？　何だかすごーい。みんな大学以外でも繋がってるのね」
「そうだね」
井倉の鼓動は目の前を行く車のスピードのように早くなった。
「ねえ、お迎えが来るまでこうしてていい？」
彼女が井倉の腕に絡みついて来た。
「こ、困るよ。僕、まだドラッグで買い物があるんだ」
行き過ぎる車の影が不穏に井倉の影を跨いで行った。